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写真に言葉は要らない
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アクチュアル (現実的であるさま。時局性をもっているさま。)
この言葉が非常にお気に入りだ。写真を撮っているとき、いつもこれを思う。
今日、ホームページの写真を入れ替えた。撮影中に心がけたことは、
被写体の声をひたすら待つ。即ち、「彼らの声を感じるまでシャッターを切らない」
ということだ。それが成功しているのか失敗しているのか、それは観た人が
判断すれば良い。ファインダー越しにずっと被写体を見ていると、
時折そんな声のようなものを感じるときがある。
題名は「actual=yyz」にした。xyzとはお気に入りのカクテルの名前だ。
その由来は -これ以上ない- つまり最上級である。

アクチュアルは最上級。私なりに言い換えれば、
この瞬間が最高という意味だ。

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フィルムの化学変化で、写真を制作するのが、フィルムカメラである。
フィルムの化学変化で写真が作られるということは、
フィルムカメラで撮った写真は、感光状態、その時の気温や湿度、
ラボの状態、などをふまえ考えると、まったく同じ状況下で
写真を制作することは皆無に近いのである。
よってフィルムで撮った写真は、その工程において、
すべて偶然が生み出した産物であると私は考える。

逆にデジタルは、偶然を許さない。
カメラ本体に物質的な影響を与えない状況下でなら、
写真作成の工程に偶然が入り込む余地は皆無に近い。
シャッターを切った時の外界の輪郭がそのまま映るのである。

真の現実を映すならフィルムカメラが得意とするところだろう。
フィルムが感光して起きる粒子単位の化学変化は、目には見えない
自然の影響も受けるからである。つまり自然は常に偶然の集大成を
連続的に繰り返しているのであり、フィルムの化学変化も、
その偶然に属するものであり、いつまでも自然現象の一環として
機能し続いてゆくものであると考えるから。

私達の身の周りには常に雰囲気というものが取り巻いている。
この雰囲気を写せるのはフィルムカメラであると私は考えている。

しかし、人間は主に目で物を見、判断する生き物である。
何かを見た後に雰囲気を感じるのが普通で、雰囲気を感じた後に
目で確認することは、目隠しゲームでもしない限り、ほとんどない。
また、視力、つまり「見る」という作業に偶然が起きると少しやっかいである。
目に見えたものは出来る限り必然でないと、車の運転も危なくて出来ない。
雰囲気で信号の色を判断していては、命がいくつあっても足りないだろう。
そのような必然性で言えば、デジタルカメラは物の輪郭や色を明確に
はっきりと再現するのは得意であると言えるのではないだろうか?

再現となると、私はフィルムカメラで事象を再現することは
不可能であると思っている。なぜなら、そもそもフィルムの化学変化によって
起こる偶然の産物に、事象の再現はできないのであり、フィルム感光、
現像、写真作成に至るすべての工程が、現実的であり、
焼きあがった写真画像にも、そこに「再現」
という概念の入る余地はなく、
それはいつまでも続く自然現象の一環であるからである。

とある思想に「この世はすべて幻想である」というのがある。
もし本当にそうであれば、デジタルカメラは幻想の外から幻想世界を
撮っていることになる。逆にフィルムカメラで撮った写真は、そのもの自体が
幻想である。私がこのことに関連してもっとも気にしていることは、
幻想世界の中でも、またそれ以外の世界の中でも、事実は存在する
ということである。しかし、真実はどこにあるのか?となるとそれは
今あげた二つの世界、またそれ以外の世界、例えばパラレルワールド
など、これらすべての世界を有して存在しているのではないかと思うのだ。
つまり私は真実の中で息をし暮らしていると言えるのではないか?
そして真実の中で真実を写真に収めるとするならば、それは現実の反映、
模写説(主観の意識や感覚は客観的実在の模像・反映)であり、外界の事象を
ありのままに写しとることで先入見は排除されるべきである。
それはけして再現ではない。

表現力または再現という点ではデジタルカメラが、フィルムカメラを勝り、
ありのままを反映するという点では、フィルムカメラが、
デジタルカメラを勝るのではないだろうか?





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管理人:Yoshiaki Matsumoto

kita44@hotmail.com

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